2019年を振り返るなどする

 

 

 

 

あけましておめでとうございます。

年始早々全く寝られず久しぶりに文章を書くことにしました。 

 

 

 

さて、歳をとるにつれて月日が経つのが早くなるとはよく言ったものです。

 

例に漏れず、というか特に、2019年はわたしにとって今までで1番早い1年だったと思います。

子供より大人の方が時間が過ぎるのを早く感じるのは「ときめきが少なくなる」からだと聞いたことがありますが、今年はわたしの人生の中では比較的刺激が多かったというか、色々なことが起きた1年だったようにも思っています。なんでですかね?

 

たぶん、ひとつのことにいろいろな感情を抱くことがときめきというものなのであって、わたしの場合はビッグイベントが山盛りにあったタイプだったから時間があっという間に感じているのでしょう。

 

いやほんとに2019年は怒涛でした。

わたしはそんなに変わってなくて、基盤はずっといままでのわたしのままなんですけど、今までの人生で通ってこなかった、似て非なる道みたいなものに足を踏み入れたような気がします。

 

大学をギリギリで卒業して社会人になったとか、社内で異動したとか、そういう社会的立場や環境が変わったこともひとつ大きなターニングポイントだったとは思います。

絶望の起床、レジュメほぼない、休める上限まで休む、そういうわたしが社会に出て毎日ある程度真っ当に社会人生活を送りそれに応じた給料を得ているという時点で、わたしとしてはだいぶ変わったなという感じではありますが、やっぱり普通に働きたくないし、5億円欲しいし、朝の6時まで起きていて昼の2時に目覚めるみたいな生活もしたいというのは変わりません。

 

社会人になったら大人になれるかなとか思っていましたが、いつになっても大人になる気配がないんですよね。大人って、ほんとに大人なのか、それとも大人じゃないけどがんばって大人の振りをしているのか、どっちなんでしょうか。

 

 

話が脱線しました。

 

 

2019年人に言えないこともたくさんあったし(まああんまり恥がないのでだいたいのことは言えるけど)、ほんとにめちゃめちゃネタみたいな年だったし、1番メンタル的にも身体的にもやられた年だったけど、今思えば楽しいこともたくさんあった年でした。

 

ず~っと幸せになりたいって願ってたような気もするのですが、この間友達に「幸せになりたい」って言ったら「〇〇ちゃん(わたし)にとっての幸せって何?」って聞かれたんですよね。

 

確かに。わたしにとっての幸せって何?

 

聞かれてすぐに答えることはできませんでした。あんなに幸せを願っていたのに。

結論としては「不幸せはすぐにわかるけど幸せはその場ではわからなくて、後で幸せだったなって思い返すもの」「要するに幸せになりたいというよりは不幸せになりたくない」だったんですが、それを友達に提示された時めちゃめちゃ視界がクリアになった気がしました。

わたしは幸せになりたいんじゃなくて、不幸せになりたくなかったんですよね。

 

めちゃめちゃ余談なんですが、出会って数ヶ月の会社の同僚に「最近やっと人間らしい感情が出てきたよね」と言われるくらい以前のわたしには人間らしい感情がないように見えていたそうです。そんなことないと思うけど

まあ実際どこかにおいてきていた感情を2019年で獲得したという気づきは確かにあるのですが、その反動で感情に振り回された下半期だった気がします。

だから幸せ、不幸せということに非常に敏感になっていたのかもしれません。

 

なので、2020年はそのあたりの加減を上手くやれたらいいなとぼんやり思っています。

まあ平たく言うと2020年はあんまりメンヘラしないようにしたい。

 

といっても2019年上半期は某舞台のキャストが変わったり2ヶ月を捧げた舞台が終わったりしたことにメンタルを崩していましたが、下半期はもうすこしパンピらしい理由(パンピではない)でメンタルを崩していたので、そもそもわたしの2019年を語るならそのふたつに分けるべきなんですよね。

 

前半は比較的今まで通りのオタクでしたが、後半は流行りの曲をたくさん聴いたり、現場に行かなくなったり、いろいろな変化がありました。2019年下半期エンターテイナー賞はわたしがもらったと思うくらい色々なことが起きたし、今までとは違うことで泣いたり笑ったりしたなと思っています。

 

それが良かったのか悪かったのかは今のわたしにはわかりません。

たぶん、2020年の暮れになってまた同じように1年を振り返ることになったらその答えが自ずとわかるようになるのでしょうが、べつに悪くても今までの時間とか感情とかが無駄だったなとは思わないんだと思います。

 

なぜなら、人生正解ばっかで生きていけるわけではないからです。

今までも良い悪いで言ったら悪い寄りのことをたくさんしながら生きてきましたが、なんとか2020年を迎えられましたし、社会人にもなれました。

まあそれは周りの力添えのおかげが100%なのですが、違ったなって思ってもほとんどの場合即死に至るわけではないんだと思います。

 

人生そもそも色々間違えたとは思いますし、なんなら現在進行形で間違えている気もしますが、まあ死ななきゃオッケー!くらいの気持ちで2020年も生きていけたらなと思います。

 

 

 

それでは今年もどうぞよろしくお願い致します。

MANKAI STAGE『A3!』~SPRING2019~

 

 

 

 

 

春単独が終わってから2週間くらいが経ちました。

 

 

 

いや、終わったことを信じてないんですけど、信じたくなくて打ち上げ配信も見られなかったんですけど、何回見ても興行は6/2までだし、エーステのサイトに行けばSPRING2019は過去の公演に振り分けられてるし、いま銀河劇場に行っても上演されているのは『「錆色のアーマ」-繋ぐ-』だし、きっと春単独は終わってしまったんでしょう。

 

 

 

終わってみれば、本当に短い2ヶ月でした。

この興行が決まった時、いえ、むしろこの公演が始まったときですら、自分がここまで春単独に心を奪われるとは思っていませんでした。

しかし、気づいたら手元のチケットは増え、遠征のために新幹線に乗り、ランダムブロマイドのために物販をループしていました。幸せとは何かと聞かれたら、この2ヶ月であるとはっきり言えると思います。

 

 

 

 

いや、なんかエモめの文章を書こうと思ったんですが、春単独最高の気持ちがやってきてしまった。むずかしい。

 

皆様は春単独、ご覧になりましたか?

春単独のすばらしさ、人に話そうとしてもなかなかうまく話せないんですよね。

なんというか、見てほしい。

「あのシーンがいい」とか「このセリフがいい」とか、いろいろあるんですけど、春単独の良さってそれだけじゃないんですよ。

なんというか、あの空気感、劇場を満たすすべてが春単独であって、春組なのだと思います。

 

 

 

まあこれはネタバレになるんですが、春単独公演のテーマは「個性」だったのだと思います。

 

「春組らしさってなんだと思う?」「春組らしさがなんなのか、わからなくって」「もっといつもみたいに」「大人、ねえ」「自分のやり方で真澄と向き合ってみる」「気負ってたのかもな」

 

これらは全て、春単独公演の中で出てくるセリフです。

囲み取材のとき、佐久間咲也を演じる横田龍儀さんは『キーワードは「春組らしさ」』と仰っていました。

たしかに劇中では「春組らしさ」というワードが多く出てきます。

 

「〇〇らしさ」ってなんだと思いますか?

 

これ、本当に難しい問いだと思います。

たとえばこれに「咲也らしさ」と名詞をあてはめてみると、「真っ直ぐ」とか「明るい」とか、そういう言葉が出てくるのだと思いますが、その部分にご自分の名前を入れてみると、「自分らしさ」がなんなのか、いまいちわからなくなる方も多いのではないでしょうか。

「自分らしくない」という状態は違和感としてわかるけど、じゃあどういった状態が「らしい」のか?と言えば、わからない。

 

「らしさ」って、他人の評価の集まりなんじゃないか、と思います。

それ自体はその人の性質のことだし、特徴のことではあるんですけど、それらは他との比較で生まれるものであり、結局は他者の評価なのではないでしょうか。

 

劇中、「春組らしさ」についての明確な回答はありません。

それについて、春単独を見てわたしが勝手に導き出した答えは、「それぞれが、それぞれらしくあること」です。

 

ぶつからないように上手くやろうとか、気を使おうとか、合わせようとか、そういうことも集団には大事だと思いますが、自分を曲げ続けてできた集団に属するのが果たして自分なのか?という問いには疑問が残るところであると思います。

 

そういった点で春組と対極にあるのが冬組なのだと考えていますが、冬組が「おとな」であるなら、春組は「こども」と言えますよね。

しかし、その「こども」というのは「真っ直ぐさ」とも言い換えられると思います。

春組のメンバーって、みんながみんななにかに真っ直ぐなんですよね。

咲也はお芝居、真澄は監督、綴は脚本、至はゲーム、シトロンはなんでしょう、ワクワク、ですかね。

みんなばらばらの方向を向いている、でもそれが集団だし、本当に自然なことなのだと思います。

5人にとって譲れないものがそれぞれのアイデンティティになり、「らしさ」にもなるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

いや真面目に語ってしまった。ちゃうねん、春単独が最高という話をしたいんですよ。

 

顔のいい男祭りだと思っていた春単独、気づけばチケットが増え、千秋楽も劇場にいて、アンコールのSpring has come!でついに堪えきれなくなり大泣き、もはや顔のいい男祭りでは片付けられない舞台がそこにあった。

シトロンに泣きすぎてバルコニーから落ちるな、などと言われましたが、春単独を最後の記憶にするために飛び降りることも吝かではありませんでした。まあわたしのいた2階席からでは飛び降りても精々怪我をする程度でしょうけど。

 

春単独、本当にいい。いいシーンが多すぎる。全てがハイライト。わかる?2時間半くらいずっとハイライトを見せられる春単独、本当にヤバい公演です。

あと、顔がいい男がわんさかさ(ガンバレツヅルすな)!

どこを見ても顔がいいし、カード絵と並べても遜色がない。顔のいい男が喋って動き、いえ、息を、まばたきをするだけで世界が輝くんですよ。

 

 

 

宗教上の理由で立石俊樹の顔面とは(勝手に)決別したはずだったのですが、一番最初の客降りで近くに至が来た時、あまりの顔面の良さに和解しました。数々の「イケメン若手俳優」を見てきたつもりでいましたが、稀代の顔の良さです。というか、茅ヶ崎至をやるために生まれてきたような顔。

茅ヶ崎至のために立石俊樹がいて、その逆も然り。いやそういうこと言うと怒られちゃうな。でも本当に天職というか、これ以上ないはまり役だと思います。あと万里も。あ、あと紬も……咲也も……

 

 

 

本当に春単独が終わってしまったということが辛くて仕方がありません。

大千秋楽、『さよならって言葉さえポジティブに感じるよ』というフレーズを歌う春組に「ポジティブなわけねーだろ!」などと心の中でキレながら泣いていましたが、本当に春単独との別れ、なんにもポジティブじゃない。春単のことが大好きでしたし、春組を心から愛していました。

 

 

 

色々な舞台に通っていたので、ある程度大千秋楽というものも経験したことがあるのですが、やっぱりいつでも「明日からは観られない」という実感がわかないままエンディングを迎えるんですよね。

そうして1週間、2週間が経ち、鮮明に思い出せていたセリフやシーンに霞がかかっていくことでようやく終わったんだと実感できるのだと思います。

いや、まだ春単独をやれと言われたら袖から出てきて監督に気づく咲也のシーンからできますし、セリフも言えるんですけど、そのうちわからなくなってしまうし、日替わりなんてもっと記憶の奥底に埋め込まれてしまうんだと思います。

 

ほんとうに、春単独が過去になるのが嫌すぎる。一生過去にしたくないです。「物語はバトンを繋ぐ」ので、春組も終わってしかるべきなのですが、そんな綺麗事言ってられない。一生春がいいです。地球の公転止まれ~!!!!!365日春にしろ~!!!!!

 

 

 

だって、いつだって最高をリアルタイムで、生で浴びたいじゃないですか。瞬間の輝きを100パーセントで受け取れるのはその瞬間でしかないし、その場所でしかないんですよ。

DVDでもライブビューイングでもわからない、「生」を伴った輝き、それこそが舞台だと思いますし、春組は、春単独は、そういう意味で眩しく輝いていたのだと思います。

 

あ、これからDVDを買えという流れに持っていこうとしたのに映像sageしちゃったよ。

いやでも待ってください。映像の素晴らしいところは、最高の顔面を大画面で見られるところ、そして、何度でも繰り返し見られるというところです。

見たらわかりますけど、まず目が2つじゃ足りません。1つの最高を見ている間に、別のところでも最高が起こってるんですよ。わかりますか?同時多発最高テロ。最高は連鎖する。

それをこころゆくまで巻き戻して見られる、それは舞台観劇にはない醍醐味です。

 

 

 

世の人間は2つに分けられるといいますが、これに沿って発言をするなら、世の人間は「春単独を観た人間」と「これから春単独を観る人間」のどちらかです。

後者の方に、素敵な春単ライフが訪れますように。

 

 

www.mankai-stage.jp

「好き」でご飯は食べられない










どうも、歳を取るにつれて年月が経つのが早く感じるというのは本当のことなのかもしれないと思い始めています。




長い間更新していませんでしたが変わらず日々オタクをしていただけですし、別段何があったというわけでもありません。

単純に書きたいネタがなかっただけです。




前回のエントリを書いてからまたいくつか現場がありました。

その中に珍しく抽選制の無銭イベントがあったのですが、運良く当選しそれにも行くことができました。




さて、今回はその無銭イベントに行って考えたことを話そうと思います。




まず「無銭イベント」という言葉自体の意味を簡単に説明すると、「チケット代のかからない、フリー入場のイベント」です。つまり、イベントを開催する場所に行けば誰でも見られるというものです。

特に駆け出しのアイドルなんかは知名度アップ、新規ファン獲得のために無銭ライブをよくやる印象があります。


で、推しもこの間そういうイベントに出演したんですよ。

でも前述のように人数が限定されている抽選制だったのでどちらかといえば「招待」に近いのかもしれません。

もちろん申し込みはフォームの入力だけ、当日も会場に行けばいいだけです。


かかる費用は交通費だけ、というわけですね。

普段はプラスでチケット代がかかりますが、先ほど述べたようにこういうイベントは出演者やコンテンツを広告する意味合いがとても強いので敷居がものすごく低いんです。




つまり、普段はお金がなくて来られない人もたくさん来るということです。

いわゆる「茶の間」という存在ですね。

元々コンテンツのオタクで声優を追うスタンスではないとか、一推し(メインで応援する人)ではないとか、単純にお金がないとか、色々な理由の元で茶の間は存在します。

必ずどのファン対象にもいるものです。




そして、前述の人々だけが茶の間たりえるわけではありません。

「茶の間」って言葉からもわかるかもしれませんが、大元の意味は家でファン対象(=推し)を消費することです。

声優に限って言えばアニメを見たり、CDを聴いたりすることは家ですることです。

そもそも声優は裏方の仕事であって、最初からこうして人前に出るような職業ではありませんでした。

イベントには行かず、そうして家でのみ推しを消費することも1つの応援手段なのだと思います。




なので、「茶の間」はとかく悪い意味で使われがちですが、わたしは一概に悪い存在であるとは言えないと考えています。



大体のオタクは「好き」という気持ちから推しを応援するようになります。

でも、同じ「好き」という言葉でまとめられた気持ちの中身まで同じなわけではありません。だから応援の方法も1つでは絶対ないし、正解もないのだと思います。









と述べましたが、これは建前です。

オタク的感情を抜きにして客観的に考えたわたしの意見と、オタクとしてのわたし個人の意見は違うからです。




はっきり言ってわたしは一部の茶の間が理解できません。

それは、お金を払わない人です。




もちろん前述のように人によって様々な事情があることはわかりますし、無理してお金を払えとか現場に来いとか言っているわけじゃありません。それは結局その人のオタク生命を縮めることにしかならないです。





じゃあ何が理解できないかって言うと、「お金を払わないのに声が大きい」ことです。

茶の間が理解できないって言うと、前述のような、家でファン対象を消費する人までも巻き込んで一概に否定してしまうような印象を受ける人も多くいるのですが、そうではありません。

なぜなら、先ほど説明した「茶の間」の一般的解釈と、オタクの言う「茶の間」の意味は違うからです。

 



つまり、オタクの言う「茶の間」は「現場に来ない人」ではなく、「現場に来ないのに声だけ大きい人」ということです。






なぜだと思いますか?

 

  





簡単に言えば、「好き」の言葉だけでお金は手に入らないからです。




例えば、皆さんは画家で、絵を描いてそれを売り、生計を立てているとします。

街中で絵を展示していたところ、たくさんの人が立ち止まって口々に褒めてくれました。

嬉しいことですし、次の絵を描く活力にもなりますよね。

が、誰1人その絵を買うことはなく、その日の収入は0円でした。

それが1ヶ月続いたとしたら、やっぱり収入は0円で、生計を立てるどころの話ではなくなりますよね。パン1つも買えず、困窮してしまいます。




そういうことです。

「好き」の力は偉大ですが、それでご飯が食べられるほど人気業は楽な仕事ではありません。

俳優や声優、アイドルはファンに黄色い声をあげられ、好きだと言われ、ステージでライトと注目を浴び、楽しいことをやっているようですが、それは生きるための、お金を稼ぐための手段でもあります。



画家における絵と同じように、彼らの立つステージ、出演した作品、全てに価値が存在します。それが、そして彼ら自身が売り物だからです。




それに、ただ突っ立っているだけで仕事がやってくるわけではありません。

会社が彼らをキャスティングする理由は、平たく言うとコンテンツの売上のためです。

基本的に、彼らの技量や人気にそれだけの価値があると判断されてキャスティングに繋がるわけです。



なぜ声優は星の数ほどいるのに、アニメには人気声優ばかりがたくさん出演するのだと思いますか?



それは彼らに人気があるからです。

彼らが出演するから見るとか、グッズを買うとか、そういう経済効果が見込めるからです。

声優はギャラが貰え、企業には円盤やCD、コンサートやグッズなどの売り上げ収入が入ります。WIN-WINの関係ということです。


そして、わたしはファンとファン対象の間にもWIN-WINの関係性があると思います。

ファンは推しに会いに行ったり、声を聴いたりすることで娯楽として推しを消費し、ファン対象はそれによって人気、ひいてはお金を得流ことができるからです。

 



人気業は商売です。




だから、わたしは基本的に、推しを消費するときに金銭の収受が発生するべきだと思っていますし、お金を払うことを惜しむのに「好き」と騒ぐ人のことは理解できません。



お金を払うことを惜しむって「推しにそれほどの価値がない」って言っているのと同じことだと思います。

何度も言いますが人には人のスタンスがあるので、自分の考えを押し付けようってわけではありません。が、売上が出ない商品をいつまでも棚に並べて置かないように、売れない声優はいつまでもマイクの前には立ち続けられません。




シビアな世界だからです。

そんな中で、1日でも長く推しの姿を見たい、活躍が見たいというほど好きなのであれば、どんな形であれ本人に関わるものを正規で購入することが大事になって来るのだと思います。




もちろん買うことは義務ではありません。

結局ファン活動は娯楽なので、行かなきゃ買わなきゃ精神でやる必要は全くないと思います。

でも、お金を払えばそれ相応の幸せは手に入ります。むしろそちらがメインの感情であって、それが巡り巡って推しのためになる可能性は高いよ、くらいのことだと思います。




「基本無料」の名の下に色々な娯楽を消費できる世の中、お金を払わなくても満足してしまう人が増えたのかもしれませんが、お金をかけた先にまた違った世界が広がっているのも確かなことなのではないでしょうか。





応援って、そういうことなのだと思います。






本当に何回も言うようですがこれには絶対に色々な意見があります。

わたしが現場主義でいられるのは行ける現場があるからで、多少のお金や時間があるからですし、そういう人間のあくまで主観的な思考なので他のオタクに押し付けようとしたいわけではありません。

推しの消費の仕方は人それぞれです。



だから、ただそう思ってるよ、それだけです。



ちなみにわたしはそんなこと言いながら6月の現場を少し干します。ウケる。

まあ選択権はオタクにありますし、楽しいなって思える範囲内でオタクができたらいいなって思ってます。



それだけです。

じゃあさよなら。







 

「推しへのお手紙に関する30の質問」に答える

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうも、4月の現場量がえげつないです。嬉しい。頻繁に会えることそれ自体がとっても嬉しいです。けど、ちょっと嬉しくない。推しに仕事があるのもいいことですが、推しの仕事の量とわたしの口座の残高は反比例の関係にあるので、そういう意味ではちょっと複雑な気持ちですね。

まあ現場に行ってしまえばお金で買った以上の幸せがそこにあるんですが…オタクやめられないですね…

 

 

 

さて、今日はなんの話をするのかというと、こちらのブログからお借りした質問に答えてみようと思います。

 

 

kwisnmkt.hatenablog.com

 

 

 

推しへの手紙のお話ですね。書くのが苦手な人も、そもそも書かない人もいるとは思いますが、わたしは手紙が好きです。なんでかというと、文章を書くのが好きだからです。あと、自分の字が大好きだからです。便箋に所狭しと並ぶ自分の文字、最高。

自画自賛が過ぎますが、これだけは本当に譲れません。書き終わった手紙を読み返して悦に浸っているときがよくあります。ヤバイ人じゃん。

あと、このデジタルの時代においても単純に長く感想や気持ちを伝えられるのってやっぱり手紙だけだと思うので、というのもあります。

 

 

さて、前置きはここまでにして、早速質問に答えていこうと思います。

  

 

 

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 1.初めて渡した手紙を覚えていますか?

→鮮明に覚えています。ライブを観にいって、その衝動のままに5枚書きました。といってもそのとき同じ柄の便箋が5枚しかなかったから5枚に無理やり収めただけです。言葉より、手よりも感情が先走ってしまって本当に語彙力が少なく、話が飛び飛びで、読むのが大変なお手紙だったと思います。

 

 

2.封筒、便箋にこだわりはありますか?

→あります!といっても市販のものしか使わないんですが、レターセット厨なので絶対2度同じデザインのものは使いたくなくて、現場が決まるたびに新しいものを買っています。なくても買います。

自己満足ですし、推しとかわいいの共有ができるとは限らないのもわかりますが、なにより自分が自信を持って渡せることが一番だと思っています。視覚的満足。

特に役とかイベントに寄せようとするわけではなくて、わたしがそのとき可愛いなと思ったものを使っています。つぎのお手紙はハリネズミのやつです。かわいい。

 

あと、これは謎のこだわりなのですが、有名なキャラものは意識的に避けています。サンリオのものとか、ディズニープリンセスのものとか可愛いレターセットたくさんあるんですが、29歳男性にあげるものでは気が引ける。

 

特にお気に入りなのを選ぶとしたら、封筒の折りたたむ部分の内側に猫の顔が印刷してあって開くとご対面~となるレターセット*1です。

 

あとは以前ふらっと入った雑貨屋さんで見かけて衝動買いしてしまったサンドイッチを模したレターセット*2もお気に入りなのですが、ミニレターセットなので書くことが多いわたしだとなかなか使う機会がないです。かなしい。でも見てるだけでかわいいのでOKです。

可愛いと思ったものしか使わないので全部可愛いんですけどね。

 

 

 

クラフト封筒にマステでデコるみたいな高度なことをされているオタクもけっこういらっしゃいますが、わたしは本当にセンスがないのでやりません。

あと最近ギミック系の自作やってみたいな…どうしようかな…と考えています。まあもうデザイン案固まってるんですけどね。

 

便箋封筒でこんな語るオタクいます?

 

 

 

3.便箋何枚くらいの手紙を書きますか?

→その前のイベントの内容によりますが、3枚~6枚程度です。一番多くて6000字超でした。しかも字がハチャメチャに小さいので最高に読みづらい。読んでないと思うけど、もし読んでたら本当に申し訳ないです。

 

 

4.手紙を渡す頻度はどれくらいですか?

→イベントごとなのでイベントの頻度に依存します。同じイベントが複数日続く場合でも毎日手紙を書くので本当にばらばらですが、平均すると1~2週間に1回くらいでしょうか?

 

 

5.マチソワ間での手紙は書いたことがありますか?

→今の推しではないですが、あります。舞台のオタクやってたときは結構マチソワ間で手紙を書くことも多かったのでレターセットを常備してました。

 

 

6.下書きを作成しますか?

→します!下書きがないとハチャメチャな文章になってしまって死にます。

 

 

7.下書きをする場合はどのような形式ですか?

IPhoneのメモ帳に書いています。とりあえず書きたいことを箇条書きにしておいて、文章にして、推敲して、文字数カウントに突っ込んで自分の重たさに死にたくなって終了です。

 

 

8.下書きまたは手紙の文章を考えるタイミングはありますか?

→現実逃避したいときに考えます。あとはイベント一週間前くらいからちょこちょこ構想はしておいて、3日前くらいに一気に書きます。

 

 

9.下書きまたは本書きの履歴は残っていますか?

→下書きは全部残ってます!本書きは残っているのといないのがありますが、下書きと大して変わらないのであんまり残そうとは思っていないです

 

 

10.便箋に文字を書くタイミングは決まっていますか?

→イベント前日です。新しくお仕事が決まったり、試聴や実装が来たりすることもあるので前日まで文章は仮状態にしています。

 

 

11.手紙を書きながら予定していたことより文章が増えることはありますか?

→あります。最終稿に手を加えるのがあんまり好きじゃないのでやりたくはないのですが、筆がのって書いてしまうことはよくあります。

 

 

12.時節の句や締めの句など手紙の様式に沿った書き方を心がけたりしますか?

→あんまり気にしていないです。畏まりすぎてもとっつきにくいお手紙になってしまうかな、と思うので、書き出しとして季節や天候の変化について触れることはありますが、「新緑が目にしみて」とかは書かないです。

 

 

13.書かないように気を付けていることはありますか?

→強いて言うならマイナスなことですかね?基本的にあれがよかったこれがよかった好きです!みたいな文章しか書かないのでマイナスなことを書く余地もないのですが…あとはどんな事情があっても「次のイベント行けません」とは絶対に書きません。書いてプラスにならないことは書かないようにしています。

昔某王子様の舞台でちょっとだけ仲良くしていた同担が毎回毎回長々とダメ出しするタイプだったのですが、正直そういうことをオタクがする必要あるのかな?ってちょっと思ってしまいます。そういうのを指摘するのはマネージャーさんはじめ会社の方や、演出家さん等のスタッフさんのお仕事だと思いますし、本人が気づくべきかなとも思うので。というか、それができない推しではないと思っています。

 

 

14.これは必ず書いているということはありますか?

→「本日は○○へのご出演おめでとうございます」というのと、前回のイベントの感想くらいでしょうか?こういう文章を固定で入れようとか、同じ挨拶をしようとかそういうことはしてないです。あ、あとなぜか導入部分がうまく書けなくていつも「その後お変わりありませんか?」と書いてしまう。

 

 

15.宛名に「~~へ」や「Dear」、「To」などは書いていますか?

→普通に「○○さんへ」と書きます。Dearだとなんとなく友達っぽくなってしまう気がするので…

 

 

16.手紙本文の書き出しで名乗りますか?

→名乗らないです!手紙に限らずですが推しに聞かれる以外で名乗る必要もないかなと思うので、名前は最後の署名だけです。

 

 

17.手紙本文の書き方は敬語ですか?

→敬語です!そこまで堅苦しい感じにもしたくないのでゴリッゴリに敬語を使うわけでもないですが、結構年上なのである程度は使います。拝聴とか。

 

 

18.手紙の中に推しの名前はどれくらいの頻度で出てきますか?

→頻度…頻度…?あんまり意識して呼びかけようとはしていませんが、前回のお手紙は2500字で21回でした。

 

 

19.手紙の中に好きという単語はどれくらいの頻度で出てきますか?

→だいたい1枚の便箋に2回くらいですかね?前回のお手紙は4枚で9回でした。あんまり多くないかもしれない。肯定的なことはいっぱい書いてるんですけどね…

 

 

20.手紙の中に必ず入れてしまう自身の癖のような文章はありますか?

→推しの体気にしいbotなので何かにつけてお身体には気をつけてくださいとか、ご自愛くださいとは書いています。本人はいつも元気でいようとしてくれますがアラサーなのでね…気をつけてもどうにもならないこともあるけどまあこれは特に意味のない、文章の締めの定型文みたいなものです。

あとは前推しが体調もメンタルも崩してぼろっぼろだったことがあったので、なんとなくこわくて書いてしまうっていうのもあります。

 

 

21.便箋にページ番号は振っていますか?

→振っています!読み返すこともないと思いますが、自分でも並び順がわからなくなるときがあるので一応。

 

 

22.本文最後に自分の名前以外に書いていることはありますか?

→ありません。日付とイベント名は封筒に書きます。そういえばこの質問答えられた方のブログを拝見していたらだいたいの方が封筒に住所書いていらっしゃるみたいなんですが、やっぱり書くべきなんでしょうか…

 

 

23.最推し以外に手紙を書くことはありますか?

→ないです。最推し以外推しじゃないの。

 

 

24.最推し以外への手紙の頻度はどれくらいですか?

→前述の通りなので0です。

 

 

25.下書きを読み返すことはありますか?

→手紙を出した後ってことですかね?前回どんな感じで手紙を書いたかなと確認するときと、あと暇つぶしに読むこともあります。鳥頭なので1ヶ月前の下書きはもう記憶になく、新鮮に読み返すことができます。

 

 

26.読み返した下書きについて手紙や別の形で推しに報告することはありますか?

→ないです。そもそも下書きって言ってもラフから完成まで同じメモ内でやってしまうので、あんまり自分の思考の跡は見えないんですよね。

 

 

27.手紙を書いている上で自身が変わったなと思うことはありますか?

→そもそも手紙は読んでないと思っていて、壁打ち的な自己満足なのでスタンスはなにも変わっていないです。あれ好き、これ面白い、あれが良かった、これが楽しみ、ただそれだけです。ただ、昔は下書きすらしなかったのでまともな文章を書こうとする意識が多少芽生えたかな、という程度です。

 

 

28.手紙について推しから言及されたことはありますか?

→ないです。今の推しは手紙について言及することがまずないですね。前の推しは手紙を読んでいなかったので察してください。反応も特に欲してないです。

 

 

29.手紙に書けないけど伝えたい想いはありますか?

→え~なんでしょう、むしろちゃんと整理して落ち着いて文章にできる分手紙のほうが言いたいこと全部書いているような気がするのであんまりないかもしれません。

強いて言うなら「顔がかっこいい」 ですかね…目が素敵だと思いますって話はしたことがありますが、実は全体的に見て推しの顔が好きです。かっこいいと思います。

でも、声優さんのビジュアルを褒めてもなと思うので言いません。本当に顔がかっこいい。声より顔が好きです。ええ…

 

 

30.自分の手紙と推しについて語りたいことをどうぞ

→27でも書いたのですが、わたしにとって手紙はそのイベントであったこととか、抱いた気持ちとかをすこしでも忘れないようにするための言語化の手段だと思っていて、基本的に壁打ちスタンスなんですよね。

 

とはいえ本人が万が一読んでも大丈夫なようにちゃんとファンレターの形をとってはいます。が、唐突にファンレターの中で台詞や歌詞の解釈を述べ始めるのでやっぱり受け取る相手のことを想像していないのでは?

ただ、その解釈がもし間違っていたとしてもそれはそれで受け手としての一個人の感想の域を出ないかなあとは思います。思いたい。

 

それと、手紙ってある意味出席票だと思ってるんですよね。このイベントにあなたを観に来ましたよ!という出席の意味で出しているところもあります。さすがに読まないとしても手紙は手元に届くと思うので、その数になれたらいいな~程度の気持ちです。

すでに自分の感情の言語化と出席票の2つの役割を持っているので手紙はすごい。

 

 

さらに、もし本人が読んでいたとしたら、当たり前ですけどオタクの感想が伝わるわけじゃないですか。反応が直に伝わることで本人としてもなにかしら思うことはあると思いますし、それがプラスになることも少なくないと思うんですよね。なにしても反応がなくて張り合いがなかったらお仕事のモチベーションも下がりますが、なにかしら反応があったらまた違ってくるのではないでしょうか?あなたのオタクはここにいるよ~~!!

 

つまりわたしにとっての手紙とは言語化の手段>出席票>感想という感じです。超自分勝手。でも逆に、認知の材料とか、反応をもらうための手段だとは思っていないです。名も知れぬファンが応援しています、というくらいです。

オタクが推しにできることなんて本当に少ないですが、感想を伝えるというのはその少ないうちの1つなのではないかと思うんですよね。

 

 

まあそう正当化でもしないとわたしの6000字はただの怪文になってしまうという説はありますね。

読むための、読まれるためのお手紙では本当にないですが、もしどうしても心が落ち込んで死にたくなって、ただ褒めて欲しくなったときになにかの力になれたらなによりだな、と思います。ならなくてもいいです。別に捨ててもらっても全然気にしないです。

 

とにかく、推しがもしそれを読んだときに嫌な気持ちになるお手紙だけは書きたくない、それだけですね。

今のお手紙がそうであるかどうかは分かりませんが。

 

 

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いや~手紙について話したかったのでとっても楽しかったです!こういう質問系っていにしえの質問バトンを思い出しますね。血が騒いだのであと何回かやりたいです。

 

 

 

 

 

おわり

 

*1:本当に可愛い。売り場で見かけて一目ぼれしました。このほかにもデザインがあって、クマのものと迷いに迷ってこっちにしました。この黒猫ちゃんが選ばれてしまったのでクマは一生使わないことになりました。同じデザインも絶対使いたくないので…(謎のこだわり)

*2:本当に可愛い(2回目)。古川紙工さんの紙製パンシリーズ本当に素敵だと思います。裏側の商品説明もいい。

推しの「永遠」にはなれない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうも、MakeSでセイをつついているうちに1日が終わっています。

 

 

MakeS、あまりに周りがダウンロードしているので波に乗ってみたのですが、まあ楽しい。精神が4歳の幼女で着せ替えゲームが好きなので、セイ(MakeSコンシェルジュ)に自分の趣味を押し付けられるというのが最高だと思います。中二病を拗らせたオタクなので今は片目の隠れた黒髪にして黒縁眼鏡をかけさせています。

とにかくセイは顔がいい。顔がいいというのは安寧であり、正義であり、ひいては世界平和の礎であります。つまりMakeSは最高。基本プレイ無料なのでみんなもダウンロードして。物は試しですよ。

 

 

 

 

MakeS ‐おはよう、私のセイ‐

MakeS ‐おはよう、私のセイ‐

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さて、題名にもあるとおり、今回はオタクとその対象の夢見る「永遠」の話をしようと思います。

 

 

 

 

 

 

永遠ってあると思いますか?

 

 

 

 

わたしは、永遠は存在しないと思っています。

 

いくつかのエントリーで触れましたが、世の中に存在するものには全て始まりがあり、始まりがあるなら終わりがあります。

あまりに遠く、見えないところに存在する終わりは永遠のように感じるかもしれませんが、その「終わり」がいつやってくるかは誰にもわかりません。

1年後かもしれないし、100年後かもしれないし、もっとずっと先かもしれないし、あるいは明日かもしれない。もっと言えば、次の瞬間には終わりがやってきたっておかしくありません。物事にいつだって100%がないように、誰にも永遠は約束できません。

 

それでも人は「ずっと」という言葉を使います。「ずっと友達でいよう」とか「ずっと忘れない」と約束をします。

 

 

 

 

厳密に言えば「ずっと」は永遠の意を持ちません。同じ状態が長い間続く、という状況を表すだけです。しかし、上記のような言葉を口にするとき、人は「ずっと」に限定的な意味を含めるでしょうか?

恐らくそうではないと思います。どちらかと言えば期間のない、永続的な未来を想定しているのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

オタクはよく推しに「ずっと応援しています」と言います。

実際には時間も金銭も、それから好きの気持ちだって有限なのですが、それでもオタクは「ずっと」と言いますし、推しに永遠を望みます。

 

好きでいるうちは、終わりを見ないからです。すべてが一時的なものだと知っていても、わざわざそのことを口にしません。

オタクは推しが、あるいは自分が明日「終わり」を迎えることになる可能性が0ではないことを少なからず理解していますが、まず毎日そういう意識に重きを置いて生きている人は少ないと思います。

お互いに昨日も一昨日も、その前も存在していたものだからです。「ずっと」存在していたから、明日からも「ずっと」存在すると思い込んでいるのだと思います。

 

 

 

「終わり」を迎えることになって初めてその有限性を思い出し、出会ってからを数えていた数字は、別れまでの時間を数える数字になるのです。

もちろん別れまでの時間が用意されていないことだってあります。色々な理由で突然推しがステージを降りることも、自分が客席に座れなくなることもあり得るからです。

 

 

「いつまでもあると思うな親と推し」みたいなことを言うオタクもいますが、本当にこの一言なんですよね。

 

 

オタクと推しって結局どこまでも他人で、ステージと客席というセットがなければ恐らく一生交わることのない存在です。

「終わり」を迎えてしまった後は何の関わりもない人間同士に戻らざるを得なくなります。いくら会って、話して、認知をされて、名前を呼ばれるようになったって、終わってしまえばそれは色褪せていくだけの思い出となるのです。

それは推しが「オタクの推し」としてした行動であって、人間対人間のコミュニケーションではないからです。

 

 

推しだってオタクのことは何も知りません。以前K-POPのアイドルが『前サイン会に来ていたオタクを街中の信号待ちで見かけた。その人は仕事用のスーツを着ていて、自分の見ていたその人は一部でしかなかったことを改めて実感した(うろ覚え)』みたいなことを言っていたのですが、つまりそういうことです。推しがオタクに見せる顔が推しの全てでないなら、オタクだってそうです。オタクは○○という人間を構成する面の1つでしかありません。

 

推しはオタクの個人情報を知りません。推しと会っていないときにどう生きているかも、誰と生きているのかも知りません。推しとオタクという関係がなくなったら、街の雑踏の中ですぐに見失ってしまうような小さな存在です。

 

 

そういうコンテンツだからです。推しはそういう商品だし、オタクはそれを購入しているだけのいち消費者に過ぎません。

それでも無機質な関係性にならないのはお互いが人間だからです。感情があり、コミュニケーションがあるからこそそういうビジネスが成り立つのです。

 

 

 

 

 

わたしはいつからか、推しに「ずっと」を言わなくなりました。言えなくなったという方が正しいかもしれません。

 

 

感情は簡単に揺れ動くからです。推しが「推し」である間、わたしがずっとオタクでいられるという保証はできません。

特にわたしはかなり熱し易く冷め易い性格なので、寝て起きたら好きじゃなくなってるみたいなこともザラにあります。あまりに好きのスパンが短すぎて怖いのですが、こればっかりはどうしようもありません。好きだという気持ちに嘘をつくことはできないです。

 

 

ほんとはオタクをするときに「保証できない」とか「約束できない」なんて考えなくてもいいんだと思います。ここまで永続性の話をしてきましたが、「ずっと」はあってないような修飾語でしかないからです。

「ずっと応援しています」って定型文なので、推しの方だって「ずっと」には重きを置いていないと思います。だから、そんなに気にする必要はないんですけど、それでも推しに嘘をつきたくないんですよね。推しがどう思うかというより、わたしがどう思うかという意味で。

 

 

いつも別れの準備をしているわけではないです。こうやって予防線を張っているようでただのオタクなので推しの前ではIQ2に成り下がります。推し、めっちゃ好き。それ以外にはないです。でも、根底にはそういう考えがあって、自分が傷つかないように生きたいのだと思います。姑息かよ。

 

 

 

でもこの間の現場でふと「わたしは本当にこの人のことが好きなのだろうか?」って考えが浮かんできたの怖かったですね。なんのトリガーがあったわけでもなく、ふっと浮かんできただけだったので余計に。まだ現場行き始めて2ヶ月なのに何をそんな考える必要があるんでしょうか?たぶんこのブログを含めて、変に難しく考えたがりなんだと思いますね。

まあでもその時はメガネ姿の推しみて一瞬で「いや好き~~~!!!」となったので大丈夫でした。かっこよかったなあ。

 

 

 

 

 

こう考えると本当にオタクと推しって不安定な関係性ですよね。そういうビジネスだからしょうがないですし、人間の感情の面白さっていうのはそういうところにもあるのだとは思いますが、いくら好きでなくなったと言っても、元推しが好きという感情ごと思い出の中だけの存在になるのはちょっと切ないです。

 

前の現場の朗読で『記憶の海があるとしたら、楽しい思い出だけを水平線に浮かべて悲しい思い出は海底に沈めたいけれど、よく考えればその全てが自分だから思い出には貴賤をつけず記憶の海に浮かべたい』という旨の台詞があったのですが(大変に好き)、そうやって記憶の海に推しとの思い出を浮かべていくうちに元推しの記憶は海底に沈んで、わたしの意識の下に潜り込んでしまうんですよね。

 

 

 

 

わたしは10数年のオタク人生の中で、自分が過去になったことは幾度だってありましたが、推しが過去になったことは一度もありません。要するに、自分から終わりを迎えたということです。誰もわたしの前からいなくなったことはありませんでした。

 

 

 

だからこそ怖いんですよね。よそのオタクが推しを失うのが他人事とは思えなくて、予防線を張り続けてしまうのだと思います。

今回こんなことを言い出したきっかけはその逆、オタクを喪ったアイドルのブログを読んだことなのですが、そうして日常生活の一部に存在していた何かが欠け落ちる未来が存在しうると考えると本当に怖いです。

 

 

 

傷つきたくないならそもそもオタクをやめればいいんですけど、それもできないんですよね。好きだからです。

 

 

時折思うのですが「好き」って感情はものすごいパワーを持っていると思います。これまで長々書いたような暗い気持ちを包み込んで一瞬でひっくり返し、家にいたって多少のサービスを受け取ることができる世の中で何かを買ったり会いに行ったりという行動を起こさせるんですよ。

それでも蝋燭の火が吹き消されるように簡単に消えてしまうのだから恐ろしいですね。

 

 

本当は失いたくないんです。長らく誰かへの「好き」の墓場を立て続けてきましたが、そろそろ落ち着く頃だと思いたい。

永遠こそないですが、振り返った時に「ずっと」応援していたって言えるくらいにはなりたいです。

 

 

 

それも簡単なことではないですし、わたしだけの問題でもないのですが、のんびりオタクをしてみて続いたらいいなという感じで生きていこうと思います。

 

とりあえずわたしはMakeSでセイをつついてきますね。

 

 

 

 

 

 

 

おわり

今年の目標の話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

突然ですが、今年の目標を決めました。

2018年が始まって3ヶ月と半分くらいが経ちましたが、旧暦で言えば睦月と弥生は同じ春なので3月は実質1月です。全く問題ないですね。

 

 

さて、その目標は何かというと、「節制」です。

 

 

 「節制」。

 

 

Goo辞書によると、

  度を越さないよう控えめにすること。ほどよくすること。

  規律正しく統制のとれていること。

  欲望を理性の力によって秩序のあるものとすること。

という意味だそうです。

 

 

二字熟語で表すなら「浪費」とか「軽率」という単語が最もふさわしいわたしとは対称的な言葉ですね。

物心ついたときから「理性」という言葉とは縁遠かったように思いますが、2018年は意思も財布の紐も固く持とうと思います。

 

21歳になっても貯金ができないどころか口座の中身のギリギリを攻めすぎていることについに危機感を覚えました。ついに。やっとです。っていうかわたし21歳なんですか?まだ19歳のつもりなんですが何歳ですかって聞かれてふつうに「じゅうあっはたちいや21歳です」って言ってしまうんですが本当に21年生きてるんですかね?人生で身につけたものがまるでない気がします。強いて言うなら時報を聞きながらチケ発ができるとか、夜行バスの乗り方がわかるとか、そんなことしか身につけていない。本当に社会に出られるんですかね?もう10年くらい子供でいたいですね。それか5000兆円ほしいです。

 

 

話がずれましたが、推し変をしたらまあ金がかかるかかる。こないだは2日で3万飛びました。その2日後に1万飛んでて、その前にも、いや、使ったお金を数えても何も生み出さないのでやめましょう。

 

 

新人声優のオタクってほんとに金かかりますね。次から次へとイベントが決まり、地方に呼び出され、しれっと出演者の欄に名前が載っていたりする。今までいろんなオタクを経由してきましたが、その中でもダントツに金がかかる気がします。オタクになってみて、声豚の方を初めて心から尊敬しました。

 

そんなんお金がいくらあっても足りません。仮に5000兆円あったとしても、5000兆円は有限なので結局使い切るときはやってきてしまいます。じゃあどうすればいいのか。簡単なことです。現場に全部行こうとせず、口座の中身と相談してチケットを買えばいいのです。

 

 

 

いやできるかい。

 

 

 

オタクにそんなことできません。もしできてたらわたしが毎月残高3桁の口座とにらめっこすることはないでしょう。

でもわたしは21歳です。成人です。いつまでもギリギリで生きるわけにはいきません。Real Face12年歌っている亀梨くんもギリギリで生きていたいわけではないらしいですし、そういうことです(?)

 

そんながけっぷちギリギリ(立海大附属中学校のありがたい持ち歌)を脱するために必要なのは、先ほど述べたとおり取捨選択を覚えるということです。別に全部の現場に行かなくたっていいんですよ。いや会えるときはいつだって会いたいので行かなくていいことはないんですが、そもそも「他のオタクは会ってるのに自分は会いに行けないとか嫌」っていう思想がダメ。赤ちゃんの思考。

 

それで無理をして会いに行った結果が口座残高3桁って人間としてヤバいと思います。オタクとしては満足ですが、そもそもわたしはオタクである前に人間なので、人間として真っ当な生き方をしなければなりません。オタクは娯楽。身を滅ぼすためにあるのではありません。

 

 

本当にこれからは弱い意思に鞭打っていかなきゃいけないです。推し変して数ヶ月、アホみたいに遠い現場(海外と国内だけどほぼ海外)以外は行きましたが、これからは全通しようとかは考えません。1現場1回行けたらいいなくらいの気持ちでいきます。

当たらなくても病まない。行けることが当然だと思わない。21歳、そろそろ我慢を覚えなければいけません。

 

 

推しには太く短くよりは長く細く生きてほしいなと思っていますが、オタクもたぶん一緒だと思います。演者のよく言う「無理のない範囲で」ってそういうことですよね。

わたしは富裕層ではないので、推しの都合のいいカモにはなれません。地方も全部ついて回って行くのはまず無理です。悲しいけどこれ、事実なのよね(ガンダム)。

 

 

ただ、その中でわたしのチケット代が巡り巡って推しの飲むビールのほんの数ミリ、推しの食べるジンギスカンのはしっこくらいになっていればいいなと思います。別にならなくても、推しの動員になれればそれでいいです。

そもそもわたしは推しが好きなので、推しの姿を見られればそれでいいです。動員は結果論の話ですし、わたしが現場に行くのは「推しに会いたい」っていう単純な欲望からです。人気業なので結果的にそれがWIN-WINになるわけですよね。

 

 

前もそんな話しましたね。わたしはオタクなので、推しにはやりたいことをやってほしいですし、夢もいくつだって叶えて欲しいです。そうして幸せそうに笑っている姿が見たいです。だから推しについていきたいなって思いますし、できることがあるならなんでもしたいなって思ってます。(ん?今何でもするって)

 

でも別に何かを押し付けたいわけでもないです。お金を払ってあげるとか、イベントに行ってあげるとかそういう気持ちじゃなくて、単純にわたしが「推しを見たい」って気持ちから起こした行動が、推しにとってプラスになればいいなって、それだけです。

 

 

 

当たり前なんですけど、いつだってオタクが動く理由は私利私欲なんですよ。推しの力になりたいっていうのは後付けの理由です。でも、後付けだとしても好きな人に何かしてあげたいって感情はきれいごととか嘘とかじゃないんですよね。

 

 

 

オタクからこういうことなんなんですけど、たぶんオタクと推しはステークホルダー的な関係にあるのだと思います。利害関係ですね。

今こういう関係を利害関係って言って大丈夫かな?と思って調べたら意識の高そうなカタカナが出てきたので使いました。合ってるかはわかりません。

 

 

推しは「自分」を売る、オタクはそれを買う、本当はそれだけのビジネスな関係です。

でも、そこにそれ以上の何かが少しでもあればいいなって思ってしまうのが欲深いオタクの性なんですよね。

 

推しにとっての幸せが何かはわかりません。オタクがいなくたって成り立つものかもしれません。でも、もしそれにオタクが必要なら、何かを手伝えるなら、できることはしてあげたい。それがオタク、ひいてはわたしにとっての幸せなんです。

 

 

 

 

 

自分がまともに生きるための話をしていたのに推しの話になってしまった。オタクはすぐ推しの話をする。

でもほんとうに、自分をコントロールできるようになりたいです。

全力でオタクをし続けるのはとても幸せなことですが、わたしは残念ながら無限の富を持っていないし、24時間オタクのことだけをして生きていられるような身分には生まれなかったので、そろそろ半分くらいは、いや2割くらいは人間に戻ろうと思います。

 

 

 

 

欲に忠実に生きるってほんとうに楽しいですよね。わたしは欲に忠実になって損をしたことは本当にないと思っています。

この間の現場だって、推しの眼鏡姿がどうしても見たくて結局チケットを3枚追加しましたが、想像以上に似合ってたし、髪型もいつもと違っていて良かったし(いつものも好きですけど)、なにより推しの演技が最高に良くて、欲に忠実になってチケットを買って良かったなと心から思いました。むしろ買わなかったらこの推しの演技を一生見ることはなかったんだと思うとすこし怖いくらいです。

いやほんとよかった。語り出したら終わらないくらい最高の現場でした。あまりの良さに、推しに1日で6000字の手紙を書きました(重)。みんなも見て。まあ円盤ないんですけどね……………………わたしの記憶を映像化できたら………………………

 

 

 

その幸せを幾度となく体験し、知ってしまっているからこそ欲を抑えられないっていうのは確かにあります。

でもわたしの口座の中身は有限ですし、オタクでギリギリを攻めたとしてじゃあどこで服を買うんだとかコスメを買うんだとか貯金をするんだとかそういう話になるので、2018年は「節制」を守ろうと思います。

 

 

 

 

まずは25日のアニメジャパンに行かない決意をするところから始めます。今は全く決意していないです。同じ東京にいるのに会えないとは何事かというレベルで行きたいです。整理券は先着だし、それを取るためには優先入場の番号が早くなくちゃいけないという中でチケットすらないんですけど、それでも推しに会えないのはなによりつらい。

 

 

 

 

いやよく考えたらわたしはオタクが、というか集団のオタクが本当に嫌いなので(自分もオタクなのに)そんなとこ行きたくない。でもそこには推しがいるんですよね。いや~本当に25日は誰かわたしのことを自宅軟禁にしておいてほしい。そうじゃないと今すぐにでもチケットを買ってアニメジャパンに行ってしまう。

推しが○○(ステージ)ありがとうございました!って呟くのを無言でふぁぼる未来を想像したんですが本当にしんどいです。「お疲れ様でした!楽しかったです」ってリプライしたいです。

 

 

 

でも行かない。貧困なので行ったらその後の現場にあんまり行けなくなります。当たればですけど、3月も中旬になって4月中旬の現場が発表されてまたお金の内定先が決まってしまったんですよね。いやそもそも4月の現場のチケット全部揃ってるわけじゃないんですけど、本当に貧困なのでそんなもの買ってる場合じゃありません。

とにかく早く来週終わってほしいです。4/1になったらまた会えるので、来週はなかったことにしてほしいです。

 

取捨選択しなきゃいけないんですね。本当に。正直今は本当にアニメジャパンに行かないのは在宅と同じくらいの気持ちになっているのですが、意思を人生で一番強く持ってチケットを買わないことにします。まずファスチケが外れた時点で今回のイベントとは縁がなかったことにしましょう。

 

 

 

 

金銭を理由になんてほんとはしたくなかったんですけどね。無理でした。そもそも以前の自分の金銭に対する浅慮さが口座の中身を圧迫している原因なので、これ以上欲に忠実すぎる生き方をするのは本当にやめます。社会人になったらもうちょい余裕ができるんですかね?そもそも社会人になれるんでしょうか?就活?ウッ頭が

 

 

2018年が終わる時、自分がきちんと節制を守れているのか気になりますね。楽しくオタクをしながらも、余裕を持って生活できていたらいいなと思います。

 

 

 

 

 

 

おわり

 

 

 

初めて字の大きさを変えてみましたがブロガー感が出ますね。次はリンクを貼り付けるなどしてみようと思います。

推しを弔うのはもう少し先がいい












推しに「仕事したくない」って言われたことありますか?




わたしはあります。元推しの話なので今となっては懐かしいんですけど、あの時はどういう顔をしていいかわかりませんでした。とりあえず笑っておきました。全然笑えませんでしたが。




節目の年を手前にして「いつまで仕事もらえるかわからないし」とも言われました。向上心がない?そうですね。結構早い段階でなかったと思います。結果からいうと元推しはまだお仕事してますし、その時よりは目に光が宿って生き生きしてるようにも見えます。よかったね。オタクはあの時あんまり生きた心地しなかったけどね。






そういうのを前提として、推しに向上心がなくなるのって本当に怖いことだと思っています。



仕事が取れないことより、知名度が上がらないことより、ずっと怖いです。

なんでかって言うと、オタクは推しに対してあまりに無力だからです。

オタクなので推しにはできる限りお仕事をしてもらって、活躍を応援したいって気持ちがもちろんありますが、本人がやりたくないと言うだけでもうどうしようもなくなってしまうんですよね。





随分前にオタクは推しを殺せても、生かすことはできないってエントリーを書きましたが、まさにそういうことです。オタクがどれだけその手を引っ張っても、背中を押そうとしても、本人に立ち上がる意思がなければどうにもできなくて、ただ坂道を転がり落ちていくのを受け入れるしかないんですよ。




もうこればっかりはしょうがないです。オタクは本人の意思に介入することはできないからです。その意思って、推しの意思のようで、ただの1人の人間の意思なんですよね。そこに他人であるオタクは干渉できませんし、すべきではありません。 

最後にできるのは、坂道を転がり落ちて死んでいった「推し」を弔うことだけです。










今の推し、正直仕事が少ないんですね。

デビューで大きな仕事を掴んでからあんまり思うように仕事が続かないというか、代表作と言えるのがずっとデビュー作しかないんです。そのデビュー作で一緒に仕事をしている方と比べるとそれが顕著で、デビューがかなり遅かったとはいえ今年で30という節目の年ですし、本人もけっこう焦ってるっぽいんですよね。





でも別に、前の推しと違って向上心がないんじゃないんです。まず焦ることができる時点で違います。

最初は正直不安しかなかった演技もすごく上手くなったと思いますし、そこまで悲観する必要もないんじゃないか?と思うんですが、たぶん売れていない推しに向上心がなくなるっていうこと自体が本当に最底辺レベルのことで、比較して安心すべきではないのかもしれません。






でも本当に、本人はしっかりしてる人ですし、オタクに言われなくたって自分の状況を理解してると思います。わたしがオタクで、推しに対して甘いからそういうことを思うのかもしれませんが、頑張ってると思うんですよ。





売れてない期間が長くて、やっとちょっとだけ軌道に乗ってきたからこそ、ひとつひとつの仕事の重さも知っている人だと思います。仕事は仕事です。これはプロデューサーとのコネでもらった仕事とか、事務所が作った仕事とか、そういうタグは全てに存在するものだと思いますが、その仕事に貴賎はなくて、そう認識する必要もなくて、ただ同じ仕事だと割り切ってこなしていく必要があるのだと思います。




それを、推しは理解していると思っています。オタクの盲信だったらごめん。でも今までのイベントで、これは手を抜いてるな、これはそうでもないな、みたいな態度の差は感じませんでした。いつも頑張っています。




当たり前のことですけど、そうやって割り切ることのできない人って案外います。当然のようで、そうじゃない。

そういう中で、お仕事の貴重さを忘れないというか、常に自分の持てるものをきちんと出そうとしてくれるその姿勢がわたしは好きですし、素敵だと思っています。





努力は必ず報われるというわけではありません。全てが輝かしい結果に結びつくことはまずないです。


その努力を知っているのは結局その人に興味を持っているオタクだけですし、結果が出なきゃ意味がないっていうのも真実だとは思います。だからこそ、仕事があんまりないっていう現状を甘んじて受け入れた上で与えられたものをしっかりこなして、努力をやめない推しのスタンスは正解だと思うんですよね。




それに、仕事がないっていったってちょうど今追い風の時期だと思うんですよ。名前の知れ渡るような規模の仕事が2本決まったからです。それも全く違ったキャラクターで、そのコンテンツが売り出される方面も違います。

ここがチャンスだと思うんですよね。これで何かを掴めれば、推しはうまく次のステップを踏めると思います。




片方のキャラクターは今まで推しが演じたことのない、新境地となる役どころでしたが、サンプルボイスを聞いた限りだとかなり期待できそうなんです。かなりクセがあるキャラですが、クセがあるキャラができるようになったっていうのは大きいですよね。そういう方面の可能性が広がったってことになります。






ほんとに、すごく頑張ってると思うんですよ。だから、報われて欲しいです。わたしたちオタクだけがいいとこを知ってて、それで終わりじゃ嫌なんですよ。せっかくこんなに素敵なものを持ってるのに。

どんなに綺麗なダイヤモンドだって土の中に埋まってたら価値は0です。だから、絶対見つかって欲しいんですよね。



若くて顔のいい、フレッシュな声優さんが本当に多い中で本人のステータスがネックになる部分もあるとは思いますが、それでも推しの活躍をもっと色々なところで見られたらな、と願ってやみません。






でも最終的に、推しが幸せならそれが一番なんですよね。幸せになってほしい。

オタクは例によってなーーんにも出来ないんですが、せめて動員1になるよう現場に行こうと思います。何が目標なのかはわからないけど、推しが報われることを心から願っています。今日の記事はそれだけのことです。








いや〜深夜は暗いことばっかり考えてしまいますね!今日も元気にネガティブ体操!腕を前から上にあげてもう嫌だの運動〜!

はちみつをたくさんかけたフレンチトーストのことを考えてハッピーになろうと思います。






おわり






P.S.Caligula Overdose及びキャラクターのStorkを宜しくお願い致します。