オタクが推しを殺すということ









アイドルに限らずですが、ファンと総称される人間の集まりの中では必ず「にわか」と呼ばれる層が存在します。

にわかの程度は人によって違い、一概にこういったファンはにわか、と定義付けるのは難しいですが、簡単に言うと「一時的なファン」という意味です。


今ではそのコンテンツが流行ってから好きと言い出すこと、それ自体が「にわか」と呼ばれることが多いようです。




そして「にわか」と呼ばれる層は元来ファンであった一部の人間から非常に毛嫌いされます。


にわかを毛嫌いするタイプのオタクがだいたい口を揃えて言うのが「遠くに行ってしまった」とか「にわかは昔のことを知らない」とかそういう類の言葉です。


要するに、それまでは閉鎖的かつ狭いコンテンツであった推しにある種の独占欲のようなものを抱いているということですね。

推しとオタクが歩いてきた道にも同じような気持ちを抱いているのだと思います。



大切にしていた宝物を突然共有物にされたような気持ちなのではないでしょうか?

推しというコンテンツが余所者に土足で踏み荒らされている、くらいに感じるのかもしれませんね。



こういうことを言い出すのは比較的若めのファンに多いように思います。

非常に排他的な思考ですしコンテンツの成長を妨げる可能性もあるためあまり賛同できた意見ではないとは思いますが、そういった意見の人たちも単純に推しが好きだからそう言うんですよね。


にわかの人たちに、簡単に好きだと言って欲しくないんだと思います。
自分たちが顔だけじゃなくてパフォーマンスもバラエティーも、たくさんのものを見てきて積み上げた「好き」と同列に並ばされるのが嫌なのではないでしょうか?


そのコンテンツが好きだといえば誰だってファンになれるからこそ同じ「〇〇のファン」として括られたくないんだと思います。





確かに「好き」に含まれるものが違うのかも知れませんが、いわゆる好きの重さ、というのは誰だって0gからがスタートです。


にわか嫌いによくかけられる言葉が「誰だって最初はにわか」ですが、全くその通りだと思います。
ガチも在宅も最初はにわかです。大体「気になる」からオタクは始まるからです。


そしてその「気になる」状態のファンを「好き」に成長させるのはアイドル等々、本人のお仕事です。もちろんうまくいかないこともありますし、「気になる」は「気になる」で終わることの方がきっと多いのだと思います。




こうして、多くの「気になる」が「好き」になることでそのコンテンツはさらに成長していきます。動員もそれに伴った金銭的な面も、話題性も全てが伸びていくからです。

そういった意味で「気になる」状態のファンを沢山つけることはコンテンツにとって必要不可欠と言えるのではないでしょうか?




だからと言って「好き」状態のファンが蔑ろにされるのか?というとそうではありません。必要という言葉でまとめるとそう感じるかもしれませんが、「好き」と「気になる」は別ベクトルでどちらも必要となるのだと思います。


 
つまり、大袈裟な発言になりますが「好き」状態のファンが「気になる」状態のファンを拒否することはそのコンテンツを殺すことに繋がりかねないんですね。


一部の若いオタクの言うことが絶対になるわけでは全くありませんし、その効力なんて一切ないのですが、そういう言動が「〇〇の現場は怖い」という印象を与えることになります。



そうして新規がつかなくなったコンテンツは終わりです。あとは廃れていくしかありません。
坂を登るのは辛いのに転がり落ちるのは一瞬です。怖いですね。




そもそもにわかがいるから「人気上昇中」という状態になれると言っても過言ではありませんから、そのコンテンツの未来的には重要な存在になってくるのだと思います。






上記のような意見では独占欲どうこうに対して説明はできませんが、まあどういう場合であれ大体好きには独占欲がつきものですよね。誰にでもあるものなのだと思います。

単純にそういった欲の強さの差と、前面に押し出すか否かといった判断の差なのではないでしょうか。





メチャクチャにわかディスりをディスっていますね。今日は個人的思想がいつもよりさらに強いです。
しかもよく考えたらにわかディスりの方もファンなのでわたしがそうやって批判するのは同じ穴の狢みたいなものですよね。でも書きます。





話が逸れましたが「わたしだけが知っていればいい」という思想はオタクごとには役に立ちません。恋愛ごとには多少役立つのかもしれませんが、その「好き」とオタクの「好き」は殆どの場合違った種類だからです。ガチのリアコちゃんは別です。



コンテンツがもっと輝くところを見たいならお金を出し、声を上げ、動員が増えることに過剰な拒否反応を示さない必要があるのだと思います。





推しグループのコンサートのCMで「前回のコンサートでは〇万の発券数に対して〇万の応募がありました!」などと謳っているのですが、これこそ動員数を見せることでファンではない人にも「このコンテンツは人気なんだ」と思わせ、気にかけさせるようなやり方なのだと思います。





やっぱり平たく言うとコンテンツに必要なのは動員と金なんですよね。応募数にせよ売上にせよ音楽番組などでの投票にせよ、数字を出さなければいけません。


どこぞのブラック企業のような物言いになってしまいましたが、数字ってやっぱり誰が見ても明確なのでコンテンツを比べる際に非常にわかりやすい指標になるんですよね。





コンテンツがアイドル前提の話をすると、どのアイドルも死ぬ気でレッスンして、辛い思いもたくさんして、ろくに睡眠も取れないまま活動をこなしていますが、そういったいわゆる裏の努力というものは見せるものではないと言われますし、もちろん数字化もされません。

表舞台だけを見た人間によって大方の評価は決まります。裏舞台の一部を垣間見ることが出来るのは、基本的にそのオタクになった人だけだからです。



そういう意味で、努力は必ず報われるわけではないんだと思います。
頑張っても数字を得られなくて消えていったアイドルは山ほどいるからです。



しかし、全てのアイドルが横1列、手を繋いで一緒に走ろうというわけにはいきません。アイドルも商売だからです。
そうして「人気」という指数が生まれ、アイドルはその頂点を目指すわけですね。


アイドルはオタクの山の上に立つ存在ですが、その高さを増すにはもちろんよりたくさんのオタクが必要になります。ここで前述の通りにわかの存在が大事になってくるわけですね。



にわかは山の一部になるかならないか、まだ決めかねている状況にあります。


そのにわか候補は増えれば増えるほど、確率的に山に吸収されていく子が増えるのだと思います。そうしてその高さはさらに増えていくわけです。そういった意味で、そもそもの高さを保つために元々のオタクが必要となる上、にわかの存在も非常に大事になってきます。


もちろんにわかが全員にわかで終わるようなコンテンツは所謂「オワコン」として廃れていきます。






だから、オタクはにわかを許容する必要があります。
さらに言えばにわかだけではなく、オタクの数だけオタクの形があるということを理解すること自体が大事だと思います。



それが推しの輝かしい未来に、そしてオタクの未来にも繋がっていくのではないでしょうか。














(余談。ものすごくどうでもいいです)


このにわかについての話は、先日動画配信サイトにて無料で推しグループの日本でのコンサート映像が放送された時のコメントから着想したものです。

実際「にわかが増えるのが嫌」とか「にわかやめろ」とかそういうコメントが多数流れていました。
無料サービスはどうしても人間の質と年齢が下がるものなので仕方ないですが、あまりにそういう発言が多くて驚いたので今回の題材として筆を取りました。


読み返してみたら幼稚でブーメランな個人思想満載、しかもやたら長い文章だったんですがせっかく書いたので載せます。





さて、話は変わるのですが、ここからが余談で言いたかったどうでもいいことになります。


そういったコメントが流れるタイプの無料動画サービス(Youtubeニコニコ動画と言った類)でよく現れるのがいわゆる「年齢厨」という存在です。
小学生〜中学生に多く、誰も聞いていないのですが自分の年齢を申告してくる人間ですね。
例:小3だけど見てます 12歳の人挙手ノ(ほぼニコ動やんけ)
そして高校生くらいの人間が「年齢厨消えろ」「お前らの年齢は聞いてない」などとコメントするまでがテンプレです。ここテンというやつですね。





その配信にももれなくいたのですが、その子たちが「05line(12歳)」とか言っているのを聞いて目ん玉飛び出るかと思いました。そんなん赤ちゃんやんけ。



ネットワークの進歩のおかげでしょうか、世の中小学生でも外国のアイドルに興味を持つんですね。死ぬほどびっくりしました。




自分はもう若くないとはいえまだババアとか言っていい歳でもないと思っていますが、さすがに12歳とか言われたらビビります。
推しの顔ばっか見てないでもっと周りに視野を広げるべきなのかもしれませんね。





それだけです。
せっかく本編をいい感じにまとめようとしたのですが余談が冗長になりました。

そういう人生です。ドンマイ。






期待するオタクとその妄言








「私たちが握りあってる手を離さず、今までのようにお互いだけを見つめて信じながら永遠にいよう」




この文章、韓国のオタクが推しグループに向けて書いた手紙の中の一文なんですけど、はじめて読んだ時からこのフレーズが頭から離れないんですよね。




こういう文章をサラッと書ける才能が羨ましいのもありますし(翻訳ではありますが)、単純に感情を揺らされたというのもあるのですが、何より「お互いだけを信じて」という言葉の観点が気になって仕方がないからです。



韓国のオタクもアイドルも「お互いだけを信じていよう」ってよく言うんですけど、これってちょっと怖さを孕んでいると思いませんか?

でもそれと同時に最大級の幸せもそこに存在してると思います。





わたしたちはオタクなので彼らの未来に期待しています。

これからのお仕事とか、新曲とか、歌やダンスの技術の向上とか、新しい才能の開花とか、そういう先々の見えないものに夢を見ているんですね。




夢とか期待ってものすごく煌びやかで眩しくて、すごく素敵なものだと思うんですけど、同時に儚くて不安定なものでもあるじゃないですか。

全てが想像通りに進めばなんにも困らないんですが、現実問題そうはいかないわけで。



そもそもうまく行くなら夢とか期待っていう概念は存在し得ないと思います。





じゃあなぜオタクはアイドルに期待するのか?というと、それは今までの彼らの活動が生んだ信頼からくるものだと思います。


ステージの完成度が高いとか、抱いていたイメージが守られているとか、レスをくれたとか、そういう見えない採点に合格した時、オタクはアイドルを応援することを決めるんてすよ。





その「推せる」の気持ちが正しく信頼だと思います。





オタクは勝手にアイドルを信じるし、勝手に夢も希望も抱きます。

そしてその夢の上でアイドルは歌って踊るんですね。





オタクは夢を抱きながらもその夢が壊れてしまうことを恐れていますが、実はアイドルも同じく夢を壊すことを恐れているんだと思います。
オタクが自分に期待していることを知っていて、「期待に応えられなかったらどうしよう」という不安を抱くからです。





最初の文章で「お互いだけを信じて」とありましたが、じゃあオタクが信じるのはわかったけどアイドルは何を信じるの?と言うと、その答えは前述の“アイドルの抱く不安”にあると思います。




不安を抱いたところでアイドルは前に進まなくてはいけません。
しかし前が全く見えない状態で進むのか?といったらそうではないと思います。



その時に出てくるのが「期待」であり「信頼」です。

これまでオタクがついてきたという事実からオタクを信頼して、これからもついてくるという期待をして、その希望を道標として踏み出すんだと思います。






前述の文章を書いた人は同じ手紙内で「わたしたちが照らす道だけを歩いて」とも書いていました。
アイドルは間違いなくオタクの光ですが、オタクもアイドルの光となれるのでしょうか?



わたしはそうだったらいいなと思います。

わたしたちが照らす道がいつでも彼らにとっての花道であったらいいなとも思います。






アイドルはよく「皆さんのおかげ」とか「ファンに支えられている」と言いますが、それは金銭的な意味だけではなく上記のような意味もあるんじゃないかと思います。





そもそも、オタクの存在がアイドルを「アイドル」にするのではないでしょうか?



多くの人がある子を「アイドルだ」と思うことでその子は初めてアイドルたりえるんですね。どれだけいいステージをしてもその子のことを誰もアイドルだと思わなければ、その子はただのパフォーマンスがうまい一般人です。
 




オタク側が言うのはとてもおこがましいんですけど、これは事実だと思います。
わたしはそう思います。

(だからどうとか言うわけでないですしこの逆も然りですが)





某48グループの総選挙で、あるアイドルがスピーチを「アイドルにしてくれてありがとう」と締めたようですが、これ本当アイドル史に残すべきじゃないですか?そんなこと推しに言われたらその日はずっと泣き続けます。これは余談。





もちろんこのわたしの思考もアイドルへ抱いている期待からくるもので、実際はそんなことないのかもしれません。

ただのリップサービスを、そう勘違いしてるのかも知れません。



もっと言えば騙されてるのかもしれません。でも、もしそうだとしても、わたしは騙され続けるのだと思います。

知っていて騙され続けるのも、また応援の形なのだと思います。






相変わらず思いついたことを箇条書きのように書くので話が脱線していますが、「お互いだけを信じる」というのはそういうことなのかなと思います。




「だけ」というのがちょっと気になりますが、そこに突っ込むと韓国アイドル界の闇を覗かなくてはならなくなりそうなので触れません。


結局オタクが一方的にアイドルを消費しているようで、アイドルありきのオタクで、オタクありきのアイドルなんだと思います。
そういう意味でも「だけ」なのかもしれませんね。





自分はアイドルではないので真実はわかりませんし、この問いかけにはアイドルの数だけ答えがあると思いますが、わたしはとりあえずオタクとしてこれからも推しに期待しつつ、変化を恐れながらも生きていこうと思います。





とりあえず目先で怖い変化は推しが鼻の整形を事務所の指示でやり直すことですね。
今クリニックを変えたのか数年の迷走を経てメチャクチャいい感じなのでそのままキープしてほしいです。頼むよ。


最後の最後でどうでもいいこと書いてしまった。でも結構切実な望みです。

 




最初から最後まで妄言ばっかですみません。

読んでる人の中にもしアイドルがいたらもっとごめん。知ったような口ききましたがキモオタクの言うことだと思って流してください。


エンジョイオタクライフ







エントリー読み返したら激重オタクでちょっと笑ってしまった。推しと言語が違ってよかったと思いました。



ここまで書いて何書こうかと考えていたのですが、じゃあ言語の話をします。




今の推しは国が違って、わたしが語学を大して習得できていないうえ知識もないから言っていることはもちろんその些細なニュアンスや雰囲気、文化に基づいた風潮みたいなのが全くわからないんです。


要するに表面上の意味しか汲み取れない。



でもその「分からない」のうちに知らない方がいいことって結構たくさん含まれてるのかなと思ってるんですよね。

 


もちろん分かった方が楽しいこととか面白いことはたくさんあると思いますし、そもそも推しの言ってることが理解出来るのはとても嬉しいことだと思います。

結局わたしは韓国語を履修していますし(あんまり出てないけど)、文章をほぼ辞書だよりで訳しながら単語や文法を覚えようと試みたこともあります。

だから前述みたいな気持ちが分からないとかではなくて、オタクとしての意思は完全にそちらにあります。





前にも書きましたが、知らないことは必ずしも罪にはなりません。
それが別言語の学習を必要とするものなら尚更他人に強制されるものではないと思います。


別にK-POPのオタクでも韓国語がアニョハセヨとサランヘヨしか分からなくたっていいんですよ。それだけで推しに気持ちを伝えられますし、向こうからの愛の形をしたなにかも受け取れます。叩き売りのようなサランヘヨもオタクにとっては宝物です。





話がどんどん脱線していっていますが、わたしは語学ができるようになりたいなあと思いつつも語学やそれに伴った文化を学ぶことで今まで見えていなかったグレーな部分が見えるようになってしまうのを恐れています。




語学に限らず知識って眼鏡みたいなものだと思うんです。知識を身につければ身につけるほど見えるものは増えていくと思いますし、ぼやけていたものも鮮明に見えるようになると思います。


でも見えるもの全てが綺麗なものであることは絶対ないと思うんですね。


じゃあ綺麗なものだけを見るのが正しいのか?というとそうではないし、むしろ綺麗でない部分を学ぶことこそ学習であり知識を得ることだとも思います。



でもわたし、オタクなんですよ。



何より先に推しが好きなオタクなんです。



好きなものの嫌なところを積極的に見たいですか?
人生を誓い合う人のことならまだしも、勝手に愛とお金を注いでる人間の悪いところも含めても愛したいから、知りたいからって掘り返したいと思いますか?




わたしはそうは思わないです。見なくていいなら見たくないです。
可愛い推し見て可愛い!ってなって、それで終わりでいいです。



趣味はあくまで趣味ですし、そういった人生のオプション要素で悲しいことをわざわざ考えたくないからです。



あくまで趣味は人生をより鮮やかに彩るものであって、自分が余計辛い思いをするためにあるわけじゃないと思うんですよ。



取捨選択可能な辛さをわざわざ受け入れる気はわたしにはないですし、推しのことを思って傷ついてるみたいな感傷に浸る気もないです。


特に趣味では、常識の範囲内でならいくらでも自分本位でいていいと思います。
自分のためにあるのが趣味だからです。




だからわたしはある意味お花畑オタクでいたいというだけで、推しのことをなんでも知りたくて情報を掘り、ダメージを受けつつ好きでいるのも、何も知らずに表の顔だけを好きでいるのも個人の自由ですし、他の人間が干渉すべきことではありません。

他人に迷惑をかけなければどういうスタンスでもそれは尊重されるべきです。





リアコも茶の間もゆるふわも、その見えない許容性の上に存在しているんだと思います。
オタクの生物多様性ですね。




前述の三者は特にオタクの中でもそういうスタンスというだけで叩かれがちですが、実際に現場で大人しくしているのに叩かれるのはよく分からないなと思います。




まあ大体は何かしらやらかしてるんですけど、叩くことそのものに喜びを感じるというか、カースト的に一つ上にいると思ってしまう人も多くいますよね。



いわゆる愚痴アカの文化が広まったあたりからそんな雰囲気が強くなったなとは思います。
恐ろしいですね。現代のネット文化を色濃く反映していると思います。




何かをやらかしたら叩かれて然るべきだとかそういう事ではありませんが、気に入らないから罵声を浴びせかけるとかマイナスイメージになるようなことを吹聴するとかはもってのほかだと思うんですよね。



そもそも他人を吊し上げて匿名で批判を投稿することで地位が上がったと勘違いしているならそれは早めに正した方がいい価値観だと思います。
批判している人間は必ず自分はそうではないと言うと思いますが、そういった人間は結構多くいます。




愚痴アカに限った話をすると、そういったブームが来てアカウントが乱立し始めてからそういう人間が増えたふうに思います。

ましてや愚痴垢を持っていることがステータス、流している情報を知っていることがステータスというように思っている人も多くなったのではないでしょうか?




怖っ。普通にその神経が怖い。
(愚痴アカや情報アカが好きではないので気を抜くとディスってしまう)




愚痴アカどうこうに限らずネットが普及した今、匿名で発言をすることが非常に容易になり直接は言えないであろう内容を赤の他人に投げかけられるようになりましたが、そういった場所だからこそ他人を許容することを求められていると思います。

もちろんそれは常識の範囲内で行うべきことで、全てを許容していたら混沌が生まれてしまいますが。




他人に一方的に求めるだけでは物事は成立しません。それは物品や感情もそうですし、許容もその一部だと思います。全てはギブアンドテイクなんですよね。


 


それっぽく書きましたがよく考えたら当たり前のことです。頭が悪いので真面目っぽいことを書けると調子に乗ってしまいます。





どちらにせよ広い心は大事ですね。推しもオタクも許しあって生きていきましょう。




考えがあちらこちらに飛ぶことで有名なので言語の話からオタクのあり方の話にシフトチェンジしてしまいましたが、要するにオタクライフ楽しく行こうぜということです。以上。閉廷。




毎回長々書いていますが推しへのブログコメントが基本的に推しのブログの長さに関係なくスクショ1枚で収まることがないと有名なオタクなので察してください。



普通に気持ち悪いですね。
顔面も喋り方も気持ち悪いのにオタクとしてのあり方も気持ち悪い。

悲しくなってきたから2017年下半期はまともな人間になることを目標にしよう。




今度こそ終わりです。
なおこのブログの記述はすべて個人の見解によるものです。イラッと来たらごめん。

現場を消化試合だと思いたくない





最近思ったけど現場って好きだから行く、それ以外の余計な感情はなくていいんですよね。


見栄張るためでもなければ義務感でもないし、追ってる自分に酔ってもいけない。
簡単なことなはずなのにどんどん難しくなっていってるような気がします。ダメオタク!


見られるために行ってはいけないって本当に真理なんだけど難しい。1度知ってしまったら戻れない オタクのみんなは少数現場に気をつけようね!楽しいけどね!



ジャニーズ以来少数現場ばっかり回してきて接触もたくさん踏んできたからもう大現場には戻れないと思ってたけど個人的には趣味が一周したのかな、とも思いますね。

普段はスクリーン越しに見ていて、数ヶ月に1回数時間だけ生で見て、接触なんてほぼなくて(積む金があればいくらでもあるけど)、虚空を眺めてるだけのアイドルと目が合った気がして、実際の本人の人間性なんて実は全くわからないくらいの距離が一番いいかもしれないなって。


見なくていいものが見えない距離(それは見るべきものも見えない距離ではあるけど)って案外居心地がいい。オタクはある程度花畑の方が圧倒的に楽しく過ごせるよなあと最近思います。




なんでも知ろうとすること、知ってしまうことって結局自分にとって必ず何かしらの害が生まれるんですよね。前現場のお陰で知った。別に知りたくて知ったことじゃなかったけど。



実際なんにも知らなくてもオタクって楽しいんですよ。推しがかっこいいとか可愛いとか面白いとか、そういうちょっとした理由で好き!ってなる感情さえあればいい。

それだけで動けるし、最高にハッピーになれるし、やっぱりどんなオタク活動もストレスフリーに楽しくやる娯楽だとわたしは思ってます。


楽しいはずの現場でイラついたり悲しくなったりしたくなくないですか?



リアコは特にすごくつらそうですよね。

わたしの偏見かもだけどいつも周りの同担を気にして殺気飛ばしてチケットの枚数とかプレの金額気にして、本人の何気ない一言とか自分の勘違いで死ぬほど傷ついて病んで泣いてるの、はたから見たらつらいんじゃないの?って思うんですけどリアコの方、どうなんですか?

どれだけ塩でもたった1回の良対応で今までのことはすべて許せてしまうんですか?




うわ〜気になる。

リアコちゃんインタビューみたいなのしてほしい。なんならやりたい。気になる。





別にリアコちゃんと差別化したいとかそういう訳では無いんですけど、わたしは今の趣味になってから本当に欲が薄くなったな〜と思います。金銭面ではなくレスの方面で。金銭面の方は完全に悪化してるのでスルー。


やっぱりオタクだからレスが欲しかったんですよ。1人対オタクのかたまりから1対1になる瞬間がどうしても好きだから。


だからある友達(アイドルオタクではない)が「わたしは背中でも沸く。何してても好きだから。」って言ってたのが昔は理解出来なかったんです。

でも今推しが変わって、その気持ちがいまとてもわかるようになったんですよ。不思議なことに。



今の推し、本当に何してても好きなんです。存在が好き。どんな米粒だろうが背中だろうがそこにいる限り好きなんですよ。存在がファンサービスなんですね。

ネタでたまにあるけど、これは本当に思ってます。存在がそうなんだからもうファンサは必要ないし、コンマ1秒だってわたしの方を向いてなくていいんです。


ボードも団扇もガンスルーされても目の前を通っただけで死ぬほど幸せなんです。通らなくたって視覚情報として推しの姿を獲得できるというのが既に最上の幸せなんですよ。




(まあでも実際うちわもボードも出すし、本人ファンサメチャクチャくれるんですよね。日本で人気なメンバーのはずなんですけど本人が自分のうちわとボードとりあえず全部手振っとけ!みたいな子でけっこうくまなく探してるっぽい。好きかよ)





でもこの先もしもっと売れて、もし東京ドームでライブをやることになって、もし魔の40.41ゲートに入ったとしても、同じくらい好きでいると思います。その姿を見せてくれて、歌って踊ってくれること以上の喜びってやっぱりない。そういう面でやっぱりちょっと欲が薄くなった気がするかなと思います。



20歳、何も変わらないと思ってましたが推しの背中で喜べる女になりましたね。
これは成長ではなくちょろくなったと言い換えられるのかもしれないです。



ちょろいオタクは楽しいので直す気は全くありません。
そして軽率なので今から新人声優の接触に行ったあとキンプラを見ます。人生楽しい。





推しに〇〇して欲しい



5ヶ月くらい前、オタク友達に「1つだけ頼めるなら推しに何をしてほしい?」と聞かれたんです。

その時はなんにも頼みたいことがなくて、「別に生きてるだけでいいかな〜」とか趣旨に沿ってない回答をしたんですけど、最近はそれが正しく答えで、わたしが推しに頼みたいことなのかなと思っています。



推しには生きてて欲しいんです。
それだけです。



別に本人がすごく病弱で休みがちとか、生死をさまよったことがあるとかそういうわけではないんですけど、生きて幸せになって欲しいんです。 

本人が健康に過ごせることが何よりの願いなんです。健康がなければなんにもできないんですよ。顔の美しさもダンスも歌も、何の価値も持たなくなってしまうんです。
たくさん寝て、たくさんご飯食べて、たくさん笑って幸せに生きてほしい。



そういう意味で、推しには生きてほしいです。もっと言えば、死ぬほど大変だけど、生きてアイドルでいて欲しいです。
今はまだ青春の延長線上で歌って踊っていてほしいし、その過程を見せて欲しい。



さらに贅沢を言うなら推しのグループがどれだけ経っても誰も欠けずに輝いていてほしいです。もうだれも体調不良や怪我で休養したり、もっと言うなら誰かが脱退したりがないといいなと夢見ています。


アイドル文化も事務所も盛んで本当に厳しい業界だし、それがなくともどんなことにも永遠なんてないけど、推しにはどうしても永遠を願いたくなってしまうんですよね。





本人に言ってもどうしようもねえだろって思うだろうけど、わたしもそう思います。


人の意思に左右されないことを願ってはならないし、変わらないことを信じてはいけないって分かってるつもりなんですけど、やっぱり守れないんですよね。



でも別れを常に考える好きってないと思うんです。ふとした瞬間に影が怖くなることがあっても、やっぱり好きって幸せが付随するものだと思うし、人間の感情の中でも好きってなかなか止められるものではないんじゃないでしょうか?

だから期待もするし願いも抱いてしまうのかもしれないですね。




オタクって哀れな生き物だな〜!やめたい!(定期的な発作)




でも好きだから生きてほしいってわたしのただのエゴだし押し付けですよね。

押し付けられるほど近い距離にいないし、結局本人が選択することだから強制力なんてこれっぽっちもないし、本人は全く気にしないんだろうけど、オタクの存在自体が本人の意思を大いに阻んでることってたくさんあると思うんです。




オタクはアイドルを消費するだけの存在だけど向こうは供給し続ければいけないし、そのためには自分の身を少しずつ削らなきゃいけなくなってくるわけで、しかもそうやって削られた先に必ず輝かしい未来が待ってるとは限らないんですよね。0に限りなく近くなってしまう可能性がある。



以前Twitterで「オタクはアイドルを殺せるけれどアイドルを生かすことは出来ないかもしれない」という趣旨のツイートをしたんですけど、我ながらすごく心に刺さっています。このツイートをした時から。


そうやって死んでいった(業界的に)アイドルに残るものってなんなんだろう?って考えるとちょっと恐ろしくなります。



供給する側って一体何が残るんでしょうか?輝かしいステージの裏には計り知れないほどの努力と苦労と汗と涙が潜んでいるけれど、そうやって輝いていた頃の思い出は果たして本人にとって素敵な宝物になるのでしょうか?



そもそもアイドルはなぜアイドルを志したんですかね。
厳しい練習生生活を何年も続けてでもデビューの夢を捨てなかった理由はどこにあるのでしょうか?



アイドルに聞きたいことナンバーワンは長らくこれです。

誰かが応募したとかオーディションがどうとかそういう入口の話じゃなくて、なぜやめなかったのかという過程の話が聞きたいです。





推しはスカウトで事務所の練習生になったんですけど、ダンスも歌も本当に自信なさげで常に下を向いていたし、かなりの緊張しいで人の前に出ることや成果を発表することがとても苦手だったようで、練習室でカメラが回されている時、周りの練習生はアピールタイムと言わんばかりにカメラに映りたがるのに、本人はいつも練習室の隅っこに丸まってたんですね。


見てるだけでこの生活が辛いことが伝わってくるし、実際1度辞めようとしてメンバーに引き止められているんです。



推しは別にスカウトされた頃はアイドルになりたかったわけではないのかなと思います。やめようとしたのも練習生になって1年にならないくらいだったんじゃないでしょうか。




そんな推しがなぜステージの上で輝くことを選んだのか、本当に純粋に不思議でしょうがない。



今の推しは緊張しいの気にしいはそのままでも、引っ込み思案なんて形容詞は似合わないくらい性格がすごく明るくなったんですね。

多分一度引き止められて、そこでアイドルを目指すことを改めて決意して、そこから推しの性格が少しずつ変わっていったのかなと思います。ただの妄想ですけど。




そういうのをあと3年後くらいに聞かせて欲しい。身長体重より、座右の銘より、好きなタイプよりも気になるから教えて欲しいです。お金なら出すから頼むよ〜


とりあえずは今アイドルとして生きてくれることにとても感謝しています。
アイドル、その儚さと脆さを持ってしても、というかそれを含めて本当に最高な存在なので皆さんもぜひ。





アイドル全体の話をしてたのに結局推し語りになってしまった。オタク推しを他人に押し付けがち
しかも読み返したら超重くて気持ち悪かった
やめよう